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偽タモリと「ブラタモリ」丸の内編で紹介されたスポットをまわってみた

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偽タモリ(石村)

タモリさんが古地図を持って色々なまちを散策し、まちの歴史やその変貌ぶりを紐解いていくNHKの番組「ブラタモリ」。わたしも好きでよく見ているんですが、2010年10月にその丸の内編が放送されました。江戸時代からさらに縄文、氷河時代までさかのぼった丸の内の歴史に興味津々。せっかくなのでタモリさんに扮してブラタモリで紹介されたスポットに実際に行ってみることにしました。
* タモリさんにしては渋すぎるサングラスはスタッフの手違いです

「丸の内」とは

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丸の内ブリックスクエア前の古地図

まずは古地図を見てみます。便利なことに、丸の内仲通りの丸の内ブリックスクエア前に現在の地図の上に安政3(1856)年の地図を重ねたものがあるので、これをパチリ。この地図を参考に丸の内を歩きます。

丸の内とはそもそも城の外堀の内側をいい、江戸でいえば江戸城の外堀の内側はすべて「丸の内」だったそうです。その内、江戸城の東側の内堀と外堀に挟まれた地域だけにその地名が残り現在に至ります。古地図で島のように見える部分が丸の内で、現在の住所で言うと丸の内全域と大手町、有楽町の一部が含まれます。

江戸時代にはこの地域には大名屋敷が並んでいたため、その中央を貫く通りは大名小路と呼ばれていました。この名前は今もそのまま残り、丸ビル、新丸ビル、三菱一号館美術館、国際フォーラムなどがこれに面しています。当時の一街区は京間120間(約236メートル)四方に区切られていました。現在その名残が残っているのは帝国劇場や新国際ビル、新東京ビルのある一角、実際に見てみるとその広大さに目を見張ります。

「一丁倫敦」がよみがえる三菱一号館美術館、明治生命館

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左)cafe1894、右)三菱一号館美術館と偽タモリ
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明治生命館の電灯

では、まずは大名小路沿いの三菱一号館美術館へ行ってみましょう。旧三菱一号館は明治27年竣工の日本初のオフィスビルで、このビルを皮切りに大名小路と交差する馬場先門通り沿いに次々とレンガ造りのオフィスビルが立ち並び、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれる一角を形成しました。旧三菱一号館は1968年に解体されたものの2009年に復元され、当時の意匠もできる限り復元されています。その中にあるカフェ「cafe 1894」は三菱銀行の前身である第百十九国立銀行を復元した空間に作られており、銀行のカウンターなどがそのまま店舗として使われています。灯りも当時のガス灯をそのまま利用した電灯を使い、文明開化の雰囲気漂う空間になっています。

三菱一号館美術館から馬場先門通りを皇居のほうへ進むと明治生命館があります。この建物は昭和3年竣工で、1997年には昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けました。正面にはコリント式列柱が立ち並び、外壁にはこちらもガス灯を利用した電灯が並びます。明治から昭和へと時代が変わり、三菱一号館美術館とは少し建物のニュアンスも変化しています。建築やデザインが好きならぜひ比べてみてください。

丸の内は海だった!そのしるしを求めて日比谷公園へ

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左)皇居外苑から日比谷通りを望む、右)心字池。ちなみに偽タモリは鳥の写真ばかり撮っていました

さて、そのままお堀のほうへ行ってみましょう。時代を明治時代からさらに縄文時代までさかのぼると、この辺りは日比谷入江という入江だったそうで、現在の丸の内もほとんどが海だったのです。家康が江戸城を整備する際に入江(あるいは河口)を埋め立てて一部を外堀として残したと言われています。
丸の内から日比谷公園のほうを見ると、公園のほうに向かってゆるやかな勾配をもち、公園内の心字池が一番底になっています。心字池は外堀の一部だったものを日比谷公園の開設時(明治36年)に池にしたもので、石垣などは当時のまま残っています。

公園を出て、今度はペニンシュラホテルへ向かいます。この辺りの住所は有楽町ですが、外堀の内側にあたり、旧来の「丸の内」に含まれる地域、古地図によると岡崎藩の大名屋敷があったようです。明治20年代の街区整理により現在の晴海通りが敷設され、地名が有楽町に改められたといわれています。

レンガの高架橋は明治の最新技術

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左)レンガのアーチ下の空間、右)当時の構造を鋭い目で観察する様は、まるでタモリさん
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レトロなサンドウィッチ屋さん

そのまま有楽町駅へ。新橋から東京駅までの線路は、レンガのアーチが連続する特徴的な高架になっていますよね。この高架ができたのはなんと明治40年、関東大震災も東京大空襲も乗り越えて今も当時のままの姿をとどめています。
これだけ頑丈な高架橋ですが、先ほども説明したようにこの辺りは海を埋め立てた地盤が軟弱な土地、そのためこの高架橋の下には長いところでは17mもの長さの松杭が土台として埋め込まれているんだそう。それが現在までしっかりと残っているということが、当時の建築技術のレベルの高さを物語っています。
そして、その高架橋の下を道路がくぐっている場所では、レンガの構造がよく見えます。そしてレンガの効果の隣にはコンクリートの高架があります。これは線路の拡張に伴い、昭和になってから建てられたもの。そしてさらに新幹線の高架がその隣に建てられました。

レンガの高架の下のアーチ状の空間は現在も様々な用途に使われています。飲食店が多く、東京駅近くにはこんなレトロなサンドウィッチ屋さんも。また、高架と高架の間の空間もアーケードとして使われています。

復原される東京駅

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工事中の東京駅丸の内駅舎を背景に

そして線路沿いを東京駅のほうへと向かうと、この空間ははとバスの切符売り場や待合所として利用され、その前には黄色いはとバスが並んでいます。明治のころから東京を象徴するこの空間、肝心の東京駅が大規模な改装のためその姿を拝めないのが残念ですが、東京観光の出発点にはぴったりですね。
東京駅の丸の内駅舎は昭和20年に戦災で大部分を焼失し、3階建てだったものを2階建てにして復興されました。現在行われている工事は、それを創建当時の3階建ての姿に復原するという計画で、南北にあったドームも再建、完成は来年の予定です。反対を見ると、旧東京中央郵便局跡地も工事中。ここには地上38階の高層ビル「JPタワー(仮称)」が立つ予定とのこと。明治期の建物の復元と新しい高層ビルの建築が並行して行われる丸の内、これからどのような姿になっていくのか楽しみですね!

bura_10.JPG最後は、数百年前には海の中だった東京駅の地下にあるシックな飲食店街「黒塀横丁」で乾杯!

参考図書

岡本哲志「『丸の内』の歴史 丸の内スタイルの生成と変遷」武田ランダムハウスジャパン、2009年

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