シリーズコラム

【コラム】「災害を乗り越える都市・大丸有」に向けて

3.11がもたらした教訓から都市の防災・減災を考える

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、三陸を中心に太平洋岸の都市に壊滅的な被害をもたらした。さらに首都圏では、震災の影響で交通機関がストップし、500万人にもおよぶ帰宅困難者が生み出された。今後、首都圏直下型地震も想定されるなかで、私たちは3.11から何を学びとることができるだろうか。丸の内をはじめ、さまざまな都市の歴史をひもといてきた岡本哲志氏から、被災後の三陸各地を歩いてこられた感想と、歴史を振り返り大丸有が過去の災害からいかにして復興を遂げてきたのか、また、これからの大丸有に必要な心構えについて伺う。

大震災で再発見! 水のネットワークの重要性 ―
近代化がもたらしたものの脆弱性を問う

― 震災後、4ヵ月経った7月に、三陸の都市や漁村を見て歩かれたそうですね。どんな印象をもたれましたか?

岡本: 震災直後、報道やYou tubeなどを見て、とんでもないことが起こったことは理解していましたが、実際に被災地に行ってみて地盤沈下が一番驚きました。三陸全体が1m近くも沈んでしまっていて、これは本当に大変なことだと。温暖化の影響で、もし海面が1m上がったら甚大な被害が出るといわれています。それと同じことが東北沿岸部では先取りするように起こったわけですから。つまり、東日本大震災は、地震・津波・原発事故に加えて、地盤沈下という四重苦を東北にもたらしたわけです。

なぜ地盤沈下が問題かというと、災害時に海上交通を使えなくなる点があげられます。たとえば、1923年9月に発生した関東大震災の折には、ちょうどこの年に完成していた日の出・芝浦港が東京への救援物資等の輸送に大いに役立ちました。阪神淡路大震災の際にも、陸上の交通網が寸断されてしまったとき、海上からの物資輸送は非常にスムーズに行うことができています。ところが、今回の東日本大震災では、津波と地盤沈下の影響で、海上交通をフル活用できず、陸上交通に大きく頼らざるを得なかったことが復旧の遅れの一因になったと考えられます。

さらに、現地調査を行う際も、沿岸の宿泊施設が軒並み被害を受けたことで大変苦労しました。調査のときは、新幹線沿いにある駅周辺のホテルに宿泊し、そこから現地まで移動するため、北上山地を越えなければならず、半分以上を移動の時間に取られてしまいました。この地理的な条件もあって、仙台や盛岡などの大都市と三陸沿岸部の間には、かなり温度差があるように感じました。東北の大都市と被災地とは、距離的な隔たりだけでなく意識的にも離れている印象があります。つまり、陸上交通の視点だけで復旧・復興を語るには、そもそも無理があるということだと思います。

その一方、震災直後に、神奈川・三崎漁港から海上交通により気仙沼に緊急物資が運ばれたというニュースが流れました。これは三陸沖に避難していた宮城県のまぐろ漁船が、「日本かつお・まぐろ漁業協同組合」の呼びかけに応じて三崎港に寄港し、救援物資を運んだことがきっかけとなり、その後、他県のまぐろ漁船もこれに続きました。やはり海のネットワークというのは強い。つねづね私は、近代経済システムの中で陸上交通だけにシフトして、他を切り捨ててきたことを憂いてきましたが、まさに震災でその課題が露呈したと言えます。都市、あるいは地域を考える上で、陸だけでなく、水辺も含めた多様性のなかで社会のしくみづくりをしていかなければならない、と改めて感じた次第です。

陸前高田の復旧に、岩手の山間部・住田町が手を上げたのも、古くからの海と陸の連携したネットワークが築かれてきたからこそだと考えています。2011年に世界遺産に登録された平泉も、海上交通と北上川の舟運なくして、内陸であれほどの繁栄は成し得なかったでしょう。そう考えると、東北の復興に際して、石巻等を中心とした水のネットワークの再構築を手掛けることが非常に重要な視点だと思います。

もう一つ被災地を訪れて驚いたことがあります。それは、たびたび報道された壊滅的な景色のすぐ傍に、被害を受けずに残っている集落がいくつも存在していたことです。被災から逃れた場所は、歴史の知恵が存在し続けてきた場所と言えるでしょう。また被災したところでも、マグニチュード9.0という巨大地震に見舞われたにもかかわらず、10月に再訪した際には、小さな漁村集落の多くが僅かな水揚げですが元気に復活する兆しを見せていました。もちろん港自体は地盤沈下で使えないところが多いけれど、それでも日常生活が営めるようになってきているエネルギーに驚きます。近代化によって巨大化したまちに比べ、小さな集落ほど回復が早いという現実を目の当たりにして、近代がもたらした効率化とは、いったい何だっただろうと思わざるを得ませんでした。

たとえば牡蠣の養殖に関しても、東京駅復元の屋根にも使われている天然のスレート石の産地として有名な宮城県の雄勝のような小さな漁村では、再興に向けてファンドを募り、すでに種付けを開始しています。実際に牡蠣が獲れるのは3年後であるにもかかわらず、です。目先のことで一番困っている東北の人たちが、3年後を見据えて自ら動き始めている。これはもう、経済効率うんぬんでは片付けられない話ですよね。地域に根を張って活動している人たちこそ、全国にグローバルに力強く情報を発信できる時代だということなのでしょう。今回の震災は、まさにそうした近代がもたらした社会システムを問い直す、大きなきっかけにすべきだと思います。

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都市の多層な歴史が災害からまちを守る ―
神社・仏閣、都市構造を歴史的視点で読み解こう

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神社・仏閣、都市構造を歴史的視点で読み解こう

岡本: 一方で、現代の技術を使って解明しなければならない点も多々あると感じています。たとえば、石巻はもともと牡鹿半島に守られるような地形と、震源が今回よりも北方だったことで、津波被害がほとんどなかった場所なんですね。そのため400年以上の歴史をもつにもかかわらず、これまで堤防を築いたことがなく、水辺が非常に近く感じられるまちでした。実際に、今回の津波被害でも、他が十数mを超えるような津波に見舞われるなか、石巻だけは5.77mと際立って低かった。沿岸部の被害はもちろんありましたが、内陸部に関していえば、下水の逆流による被害が主だったと聞きます。一方で、高速道路や鉄道だけでなく、古くからある運河の土手が被害を食い止める役割を果たしたといわれています。ここでも近代システムについて考えざるを得ません。なぜこれまで石巻は無堤防でいられたのか、このあたりは自然科学の人たちにきちんと解明していただき、今後の復興につなげていければと思います。

野城: 私が所属している東大・生産技術研究所では、震災直後に、衛星画像とGISを使って被災地の浸水域を推定して公表しました。それを見てみると、防潮堤や防潮林は破壊されましたが、意外にも高速道路や鉄道、屋敷林などが被害を食い止める役割を果たしたことがわかります。そういうものが多重防御の役割を担っていたわけです。こうした知見も、今後のまちづくりに生かしていく必要がありますね。

岡本: そうですね。戦後の日本は、一ついいシステムができると、そればかりに頼って、他を切り捨ててきました。それはやはり危険だということです。防潮堤にしても、軒並み破壊されてしまいましたが、津波の返し波による影響だけではないと考えています。今一度、きちんと検証する必要があるでしょう。逆に言えば、千年に一度程度起こる災害に、ハード面だけでいくら備えようと思っても難しい、ということなのかもしれません。
釜石市の小白浜は、1896(明治29)年と1933(昭和8)年の三陸大津波で壊滅的な被害を受け、高地移転をしていた町でした。今回の津波でも大きな被害が出たのですが、一人も死者を出さなかったそうです。この事例からの教訓は、いくら家が倒破し、集落が壊滅的な状況になったとしても「死なないようにすれば、死なない」ということなのではないでしょうか。地震が起こったらとりあえず高台に逃げるという歴史の教訓が、集落の人々に伝えられてきたからこそ、みな助かった。今回の災害では、それが活かされている地域とそうでない地域の差が大きかったように思います。まちづくりで少なくとも、10分くらい自力で走って逃げられる場所があることが重要ではないでしょうか。今回も、日和山や高台にある神社に逃げて助かった人が多数います。時代が進むと、坂を登るのが大変だからと、高台にある神社を低地に下ろしてしまった地域もありますが、今一度、高台にある神社の意味を問い直す必要もあると思っています。

野城: 神社・仏閣というのは避難地になり得るということですね。たとえば、長崎などでも、江戸時代の地図を見ると、等高線に垂直に道が築かれていて、その先端に神社・仏閣があることがわかります。それは、水害の際に、直線状に効率よく逃げるためのものだったのでしょう。

岡本: 坂道を上っていくのはしんどいわけですが、年に1~2回の祭りのたびに神社を訪れる。つまり、祭りを通じて避難経路を家族全員、近所の人々同士で確認しているんですね。大丸有でも年に一度の防災訓練を実施されていると思いますが、防災のための訓練だけでなく、他の企画と組み合わせて、やはり体で覚えるしくみであることが重要だと思います。

もう一つ、津波被害が比較的少なかった地域をよく見てみると、じつは中世の集落の形を残したままの場所が多いことに気づきます。従来、中世の集落というのは坂道や階段が多くてバリアフリーでないといわれてきました。しかし実際には、港と集落を結ぶ垂直の坂道は急ですが、坂道を背骨と見立ててそこから「魚の骨」のように等高線に沿って道が築かれていて、横移動に関しては平坦なのです。そして、横移動でコミュニティが形成されています。典型的な例としては、神奈川県の真鶴に、このような空間システムが現在も脈々と残り続けています。東日本の太平洋側沿岸部の集落でも、このような空間システムを基本に成立してきたと思われる集落が見受けられます。石巻市の雄勝にある大須や釜石市の花露辺(かろっぺん)といった集落はまさにこの構造をしています。しかもこれらは、津波被害が比較的少なかった集落の一つです。港町や漁村の良さというのは、このように古代・中世の空間構造を生かしたまま集落が形成されている点にあるといえます。さらに大切な点は、近世以降につくられた町が被害を受けても、その背後に、中世以前の町が控え、多層構造によって被害を抑えていることです。それらは、近代的な港をつくるには不便な場所が多く、近代化から切り捨てられてきたからこその知恵かもしれません。

一方で、陸前高田に関しては、明治、昭和の津波に耐えた沿岸の松林が、今回は震源地に近かったこともあり、根こそぎやられてしまい、壊滅的な被害を受けました。しかし、だからといって、400年もの間、町を守ってきたシステムを手放してしまっていいのか。都心のビルの耐用年数など、せいぜい40~50年。400年の歴史に耐えたものなら、再現する価値があるのではないかと。不足している視点を補いながらそうした空間アイデンティティを、いかにして復興していくのかというのも、今後の大きな課題でしょう。

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ダイナミズムとネットワークがまちを支える ―
地域文化の継承と人の流動性が鍵を握る

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地域文化の継承と人の流動性が鍵を握る

野城: 近代化以降の都市というのは知らず知らずのうちに相互依存性の上に成り立っていて、一つのサブシステムがダメになっただけで、さまざまな機能がストップしてしまう危険性を孕んでいるということですね。そうした中で、小さな漁村が早々と復旧を遂げていたというお話はとても印象深いです。これからの都市には、その土地ならではの記憶や文化の継承、そして自律性といったものが求められているということを強く感じました。

岡本: そうですね。被災地を歩いてみて、そもそも戦後日本は本当の意味での文化を構築することができたのか、と強く感じるようにもなりました。経済効率の上に乗っかった文化は持続可能なものか、疑問です。
たとえば祭りも、地方の大きな祭りは、観光=経済ベースを抜きにしては語れなくなっています。それはそれで意味はあります。しかし、それはあくまでも人に見せる祭りであって、もともと地域にあった、地域の人の命を守り、紡ぐ祭りではありません。歴史的には、地域の連帯を深める祭りの存在があります。近年、そうした地域の祭りの意義が薄れつつあったわけですが、3.11によって、それが問い直されることになったと思います。文化というのは経済の上に成り立つものではなく、あくまでも文化があってこその経済だと考えています。
先述の雄勝には、800年の歴史をもつ神楽が伝わっていて、1年を通じて場所と日時を変えながら神楽祭りが催されています。これは人に見せるための祭りではなく、あくまでも地域の人たちのための祭り。そのことによって地域の絆を深めてきた。これも、災害で「死なない」しくみの一つなんだと思います。

― といはいえ、やはり経済活動をどう立て直していくかというのが、復興においては極めて重要なテーマでもありますよね。

岡本: もちろんそれは東日本の復興・再生にとって重要な必要条件ですが、戦後の経済成長の枠組みで考えていただけではダメだと思います。そうしたなかで、私は地域産業の後継者となる人たちの職業訓練の機会をもっと積極的に広げていくべきではないかと考えています。そこで必要なのは、人の流動性なんですね。今、第一次産業の高齢化が問題視されていますが、じつは明治も昭和もずっと高齢化の問題を抱えてきたわけで、問題の根は高齢化にあるわけじゃない。むしろ、地域に人がどう入ってくるか、入っていけるかどうかです。面白いことに、漁村というのはつねに新しい人が入り込んできた歴史がある。高齢化しながら流動性をもって続いてきた歴史があるのです。それこそが、ネットワークの成せるわざといえます。

― ネットワークが鍵を握っていると。

岡本: まち同士の複合的・有機的なネットワークの形成が重要だと思います。先の「牡蠣ファンド」の話のように、小さな漁村が一気に世界とつながることも可能な時代ですからね。さらに、都市と地方を結ぶネットワークも必要でしょう。地方のとびきり旨いものを、全部、築地に集めてしまうような一方通行ではなくて、東京の人が地元まで食べに行くような、相互交流のしかけづくりをすべきです。今のように、美味しい食事、美しい風景はやはり現地にある、ということが、都市と地方を有機的につなぐのではないでしょうか。

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想像力と先手こそ、都市を救う ―
三菱一号館の松杭と丸ビルの筋交いから学ぶ

想像力と先手こそ、都市を救う ―
三菱一号館の松杭と丸ビルの筋交いから学ぶ

ここまで3.11後の東北の現状からお話をお伺いしてきましたが、このお話をベースにしながら、大丸有に話を移したいと思います。首都圏では、直下型地震も懸念されていますが、歴史を遡って、関東大震災が都市にもたらしたものとは何だったのか、そこからいかに復興を遂げてきたのか、そして今後、いかにして災害に強いまちづくりをしていけばいいのか、お話をお聞かせください。

岡本: 関東大震災がもたらした最たるものは、「郊外化」でしょう。関東大震災前まで、郊外に延びる鉄道は、いわゆる産業鉄道です。都心のゴミや汚物を郊外の農村に運び、郊外からは砂利や食材を都心に運んでくるためのものだったのです。それが震災後に、既存の路線を生かして、"汚穢"の代わりに人間が郊外に運ばれるようになり、職住分離が進行していきます。確かに高度経済成長期までは郊外化はそれなりに意味があったのだと思いますが、結局はその後、ものすごい勢いでスプロール化が進み、今となっては職住分離の弊害が現出している気がします。今回の3.11で多数の帰宅困難者を出したことでもわかりますよね。
そもそも、そのまちを愛していない人たちが、コストバランスだけでそのまちで商売をやっている、というのはよくないと思います。従来の銀座のように、本来ならそこで経営し、営業している旦那たちにこそ住んでほしい。つまり、そのまちを愛して、よりよくしていきたいと思っている人が住んでこそまちはよくなるし、災害時などいざというときの地域力は、住んでこそ、ではないでしょうか。
この視点からすると、大丸有でもそろそろ、職住接近を積極的に進めていく必要があるでしょうね。このまちは本来、職住一体となるはずでしたが、日露戦争後の戦勝景気を受けて、ビジネス一辺倒のまちになってしまった歴史があります。大丸有の姿勢でなんとか成立しているものの、世界中どこを見渡しても、夜中に住人が空っぽになってしまう環境で治安のいい都市なんてあり得ません。ようやくいま、三菱一号館の再生などを機に、大丸有もまちづくりの原点回帰をしつつあるように感じられますが、それは災害に備える意味でも重要な視点だといえます。
しかも、今すぐにでもとりかかるべきことだと思います。なぜこんなことを言うのかというと、大丸有は関東大震災を受けて災害に強いまちをつくったわけではないから。つまり、事前に手を打っていたからこそ、今日まで日本の中心たり得てきた歴史があります。

明治27年頃の、旧三菱一号館(一号館美術館提供) 当初の三菱一号館が完成したのは1894(明治27)年ですが、その3年前には濃尾地震が発生していましたし、東北でも地震が頻発していたこともあって、それを対岸の火事とはせずに、一号館の設計に取り入れたんですね。その最たるものが、液状化対策でした。そもそも丸の内は入江を埋め立ててつくられた土地なので地盤が悪く、それを見越して、建物の周りの地盤に松杭をびっしりと打って、地盤が動かないように固定していたのです。これは一号館の再生のために地盤を掘削してみて、初めてわかったことです。

一方、丸ビルの場合は、関東大震災の前年の1922(大正11)年に、東京を襲ったマグニチュード6.8の地震によって、完成間近の建物が大きなダメージを負ってしまったという経験がありました。そこで急きょ、163ヵ所に筋交いを入れて補耐震補強をしたのです。そのため、翌年の関東大震災では建物本体に大きな被害を受けることがありませんでした。そこで、安全性を目の当たりにして、政治機能も経済機能も、すべてがこのまちに集中することになるのです。

つまり、何か起こってからやろうと思っては遅いんですね。大丸有の先進性は、土地の特性を踏まえつつ、ちゃんと先回りして手を打ち、その場所のもつ重要性、歴史性を継承してきた点にあります。しかも、エリア全体をローテーションで更新しつつ、時代に即して変化させてきました。これはもう、大丸有だからこそできたことだと思います。

野城: やはり、まちづくりにおいて必要なのは、イマジネーションなんでしょうね。戦後復興で日本は考える暇もなく開発を進めてきましたが、大丸有を見てみると、あれこれ考えた形跡が見られる。それを今一度掘り起こし、次世代に向けて検証しておく必要がある、ということですね。

岡本: 自分たちの住んでいるまちの歴史を知るということは、とても重要な視点だと思いますよ。なかでも、目に見えないことをどれだけがんばってきたか、ということを知ることが大切です。そのことによって、不測の事態の可能性を用意し、乗り切ることが可能になるのだと思います。

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災害を乗り越える都市の条件とは ―
エネルギーシステムの自律と水運の復活

災害を乗り越える都市の条件とは ―
エネルギーシステムの自律と水運の復活

野城: 大丸有では、ここ十数年、土日も人が集まれるような魅力的なまちにすべくブランディングを進める一方で、より高密度化しようと容積率を上げてきたわけですよね。それは一見、矛盾することなく並行して実現してきたように見えるけれど、災害という視点で考えると、どこかで限界にぶつかるかもしれないという気がしています。実際に3.11で、東京駅周辺に人が続々と集まってきたように、大丸有には有事にはシェルターとしての役割も期待されています。そこで、大丸有では今後、どのようなしくみづくりをしていったらいいと思われますか?

岡本: ぜひがんばってほしいのが、実は目に見えない部分、つまりエネルギーの自律です。そもそも原発というのは、大都市に高質なエネルギーを大量に供給するためのもので、1ヵ所で集約的にエネルギーを生み出せることから高効率でコストが安い、と推進されてきました。今回の大震災で、都市が発電地域に大きく依存してきたリスクが露呈してしまいました。自律を進めれば、この依存度が下がっていき、発電地域のリスクも低下するでしょう。自然エネルギーも取り入れた自律的なエネルギーシステムを、大丸有で構築してほしいと願っています。

あくまでも自律的、というのが重要です。というのも、自然エネルギーによる電力自給180%を誇る岩手県の葛巻町で、災害時に自分たちの風力発電による電気を使えなかったという事象がおきました。東北電力の系統につながっていたため、東北電力の送電網が寸断されると、発電能力を自前でもつ葛巻町が停電してしまう。これまでのシステムのあり方を、ゼロベースで見直す必要があることを示している事例だと思います。
ただ、エネルギーに関しては、いくら地方だけががんばっても難しいでしょう。大丸有のような先進エリアにいる企業や就業者が率先して目標を掲げて示すことが重要です。高層ビルが林立し、壁面が多く、人が多く、ゴミが多い。そういうデメリットをいかにメリットに変換できるか。この視点にエネルギー問題を解決する鍵があるように思います。

実際に、大丸有はそうした先見性を明治以降発揮して、関東大震災を乗り切ったわけですからね。もちろん次の危機はあるかどうかわかりませんが、東京に直下型地震がくれば、首都圏の被害は3.11どころではありません。災害で東京中が機能停止してしまっても、たとえば大丸有だけでも、しっかりと電気がついていて、通信もでき、水も飲むことができれば、働く人だけでなく、どれほど多くの人が救われるでしょうか。しかも、震災後に問題となる糞尿やゴミについても、大丸有に避難してきた人たちのものも含めてエネルギーに変えることができたら、これほどいいことはありませんよね。それができるだけの技術は、すでに日本はもっているはずなので、率先して実現できる場所が求められていると思います。
先見性をもって明治にやってきたことを、今の時代に読み変えて、大丸有から発信していかなければならないということですね。

岡本: そのためにも、やはり歴史を学ぶことが重要なのです。1894年に三菱一号館でやった松杭の地盤工事というのは、現代において自律的なエネルギーシステムを構築するくらい革新的なことだったはずです。それがどれほど革新的だったかをお互いに確認し、共有しなければなりません。

そもそもいま、東京の人たちの繁栄の一部は、福島の人たちが抱える問題や今回の犠牲の上に成り立っています。歴史を紐解いても、大手町に将門塚でまつられている平将門は、ルーツで福島とつながっている、という研究もあります。将門塚を縁に、東京と福島の関係を見つめなおし、将門を鎮める「祭り」が、必要なのかもしれません。
もう一つ、ぜひ実現してほしいのが水の都の再興です。水辺は、「お化粧」するだけではもったいない。観光で、産業で、そして防災で、立体的に活用したい。イタリアのベネツィアのように、羽田から船で日本橋川を遡り大丸有まで来ることができたら、それはすてきですよね。しかも有事には舟運が大変役に立つ。大丸有の祖である岩崎彌之助の果たせなかった夢、水の都の形成に、ぜひ、再チャレンジしてもらいたいと思います。(インタビュー終)

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明治以降の地震災害の歴史

明治以降の地震災害の歴史

岡本哲志氏へのインタビューをとおして、過去の歴史をひもとくことの重要性を、再認識することができました。私たち現代の日本人はあまりにも過去の出来事に無頓着だったのかもしれません。今回のインタビューの締めくくりに、明治以降の日本を襲ってきた震災の歴史を振り返ってみます。

日本は地震が多い国であるということは多くの方が、理解されていると思います。記憶に新しい阪神淡路大震災はわずか15年前ですし、この間に新潟中越地震もありました。しかしそれ以前になると、関東大震災くらいしか思い浮かばない人が多いのでは。調べてみると、日本が地震大国であることがはっきりとわかります。ここではマグニテュード(以下「M」)6.5以上を記録し、死者1,000人以上の地震をまとめてみました。末尾にはM6.5以上で死者が出た地震すべての一覧表を添付しています。
* 地震のデータは、公益社団法人「日本地震学会」の資料をもとにしています。

濃尾地震

水鳥地震断層(小藤文次郎撮影) 1891年(明治24年)10月28日。愛知・岐阜両県に被害をおよぼした濃尾地震が発生しました。日本内陸を震源とする地震としては最大規模です。Mは8.0を記録し、建物全壊14万戸あまり、半壊8万戸あまり、死者は7,273人にもおよびました。この濃尾地震による水鳥の地震断層の写真は海外の教科書にも掲載されたそうです。

明治三陸地震津波

津波で水に浸かった家屋(吉川弘文館「明治の日本」より) 1896年(明治29年)6月15日。三陸沖でM8.0の地震が発生。地震による直接的な被害はありませんでしたが、三陸沖は津波に襲われ、1万戸以上の家屋が流され、北海道から宮城県まで約22,000人が亡くなるという大惨事となりました。

関東大震災

関東大震災で一部破損した郵船ビル(「丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史」より) 1923年(大正12年)9月1日。首都を襲ったM7.9の大地震は、地震後発生した火災により被害が大きくなりました。家屋全半壊25万4千あまり、家屋消失44万7千あまり。死者行方不明あわせると14万2千人という未曾有の惨事です。この震災では岡本先生のお話にもありましたが、丸の内地区はビル化が進み始めていたため火災による被害が少なく、震災後は企業だけでなく国の行政機関なども一時的に集積し、震災後の復興の拠点となりました。
* 近年、死者行方不明の数は10万5千人あまりだったという修正説が出されている。

北丹後地震

1927年(昭和2年)3月7日。京都市北西部、丹後半島を中心にM7.3の地震が襲いました。被害は福井県、岡山県、三重県、香川県、大阪府までおよび、家屋全壊12,584戸、死者は2,925人。

三陸地震津波

1933年(昭和8年)3月3日。明治三陸地震津波から40年に満たないこの日、三陸沖で発生したM8.1の地震が津波を引き起こしました。三陸沿岸では家屋流失4,034戸、家屋倒壊1,817戸、死者行方不明あわせると3,064人。岩手県沿岸の被害は特に大きく、大船渡市綾里湾では溯上した波の高さ28.7mを記録しています。

鳥取地震

1943年(昭和18年)9月10日M7.2。鳥取市内を中心に被害が大きく、家屋全半壊14,000戸あまり、死者は1,083人。

東南海地震

1944年(昭和19年)12月7日M7.9。静岡県、愛知県、三重県などあわせて家屋全半壊54,000戸あまり、死者行方不明あわせて1,223人。津波も各地に押し寄せ、熊野灘沿岸では6~8mの津波を記録しています。

三河地震

1945年(昭和20年)1月13日M6.8。愛知県南部を襲った地震は規模の割に被害大きく、家屋全壊7,221戸、死者は2,306人。

南海地震

1946年(昭和21年)12月21日M8.0。被害は中部以西の日本各地におよび、家屋全半壊35,000戸あまり、死者は1,330人。津波が静岡県から九州にいたる太平洋岸に襲来し、高知県、三重県、徳島県沿岸では4~6mの津波を記録、津波による犠牲者も多数でています。

福井地震

福井地震で被害を受けた福井市内の大和百貨店(バートン・コーエン撮影) 1948年(昭和23年)6月28日M7.1。被害は福井平野とその周辺に限定されていましたが、福井・石川両県で家屋全半壊48,000戸あまり、死者は3,769人という大きな被害がでています。

阪神淡路大震災

1995年(平成7年)1月17日M7.3。死者行方不明あわせて6,437人。

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

2011年(平成23年)3月11日M9.0。死者行方不明あわせて2万人あまり。

震災の数とその被害の大きさに慄然とします。私たちは、これらの歴史をしっかりと心にとめて、まちづくりや、日々のワークスタイル、ライフスタイルにいかしていくことが必要だといえるでしょう。

明治以降の地震災害の歴史(PDF)

※ 参考文献:『地震の日本史』寒川旭著・中央公論社発行 『「丸の内」の歴史』岡本哲志著・ランダムハウス講談社発行

編集部から

今回の岡本氏の話で印象深かったのが、神社や祭りが住民の命を守るという話だ。年に1~2度、祭りごとに神社を訪れることで、家族全員で避難経路を確認できるという話に、納得させられた。しかし、知恵の継承には、土地の歴史や伝統を守るだけでなく、時代に即したしかけが必要だとも感じた。地縁の切れてしまった大都市では、何が有効なのだろう。多様化した時代の中で、地域の人がかかわれる「現代の祭り」をいかに生み出せるかが、まちづくりの成否にかかっているように思う。

岡本哲志(おかもと・さとし)

1952年東京都生まれ。法政大学工学部建築学科卒業。博士(工学)。法政大学サステイナビリティ研究教育機構リサーチ・アドミニストレータ、同大学院デザイン工学研究科兼任講師 同エコ地域デザイン研究所兼担研究員。岡本哲志都市建築研究所代表。日本の港町研究会代表。著書に、『「丸の内」の歴史-丸の内スタイルの誕生とその変遷』(ランダムハウス講談社)、『港町のかたち その形成と変容』(法政大学出版局)、『銀座を歩く 江戸とモダンの歴史体験』『江戸東京の路地 身体感覚で探る場の魅力』『港町の近代 門司・小樽・横浜・函館を読む』(学芸出版社)、『銀座四百年 都市空間の歴史』(講談社選書メチエ)など多数。

野城智也(やしろ・ともなり)

東京大学生産技術研究所教授、所長/「大丸有 環境ビジョン研究会」座長。

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