中村桂子(なかむら・けいこ)
1936年生まれ。東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了。理学博士。国立予防衛生研究所を経て、三菱化学生命科学研究所入所。早稲田大学人間科学部教授、JT生命誌研究館副館長、東京大学先端科学技術研究センター客員教授、大阪大学連携大学院教授などを経て、現職。最近の著書に、『生命誌の世界』(日本放送出版協会)、『「生きもの」感覚で生きる』(講談社)、『ゲノムが語る生命-新しい知の創出』(集英社新書)、『「子ども力」を信じて、伸ばす』(三笠書房)など、著書多数。
6.循環性と組み合わせ、そして可塑性
――「愛づる」という知的な愛を育むこと
科学技術の発展や近代科学を否定するつもりはありません。全人口が69億にもなる人類が、人工物をつくらずに暮らすことはもはや不可能ですし、人工物をつくるうえで近代科学は不可欠です。ただ、機械であれば、構造と機能さえ見ればいいわけですが、生き物を基本にした世界では、構造と機能に加えて、起源、歴史、時間、かかわりといったことまで包括的に見ていくことが必要になる。なぜなら生き物は、外部の環境と、過去や未来と、自分自身と「変わりながら繋がっている」からです。時間と関係性を見ていかなければ、生命のことは決してわかりません。
機械に必要なのは利便性と均一性であり、速く、手がかからず、すべてが思い通りにいくことが求められます。一方で、生きることに必要なのは継続性と多様性であり、生き物にとってはプロセスに意味があり、古いものとつながっていて、すべてはわからないし、思いがけないことが起こるけれど、そこに面白味がある。その違いを認識したうえで、私たちが生き物を基盤にした世界で人工物を築いて暮らしていくためには、「循環性」と「組み合わせ」と「可塑性」が、鍵を握っていると思うのです。
実例を見ましょう。アゲハ蝶は蜜柑の葉に卵を産みますが、他の葉と見分けるために前脚に化学感覚毛と呼ばれるセンサーをもっています。実はこれは、人間の舌の味覚細胞の構造とまったく同じ仕組みをもっているのです。生物は進化の過程で機能の「使い回し」をしてきた。一から新しいものをつくるのではなくて、古いもの、使えるものを捨てずに使っていきます。使い回しの中で物質はすべて循環しています。
生態系の多様性に目を向けます。イチジクの実に寄生するイチジクコバチは、実に穴をあけて交尾をし、卵を産んで、メスは花粉をつけて、また次の実へと移動します。そのことにより、イチジクの繁殖が可能になり、それが森の虫、鳥、動物を支えています。イチジクとハチの共進化が森をつくってきたわけです。ちなみに全生物のうちの大多数が昆虫と植物であり、昆虫や植物の生存のプロセスの中から、さまざまな組み合わせが生まれ、多様性を生み出してきた、これが生態系の基本になっていることを忘れてはなりません。
さらに可塑性ですが、その最たるものが人間の脳です。脳の可塑性の事例として興味深いのが、脳科学者のジル・テイラー博士の体験です。この方は37歳のときに大量の脳出血を起こし、左脳の大部分が破壊され、言語を失ってしまいました。後の彼女の言葉によれば、「皮膚感覚を失い、体が溶けたように外界との境界がなくなり、ものすごい幸福感に満たされた」のだそうです。とはいえ、言葉をしゃべることもできず、常識的に考えれば再起は不可能と思われていました。ところが、その状況をみたお母様は、これは赤ん坊と同じだと直感的に感じ、赤ちゃんを育てるようにリハビリを行ったところ、8年間で言語を取り戻し、普通の生活に戻ることができたのです。私はジル・テイラー博士にお話を伺ったのですが、このような体験があったとは思えないみごとな話しぶりでした。それくらい脳には可塑性があるということなんですね。
このように、生命を基本に考えるときに私が常に立ち戻っているのが、『堤中納言物語』に登場する、「虫愛づる姫君」の物語です。平安時代に生きた姫でありながら、お歯黒もせず、眉も引かず、毛虫を愛する風変わりな姫として登場します。宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカのモチーフとも言われています。この彼女こそ本当のナチュラリストだと思うのです。毛虫を愛するのは、これがやがて時間を経て、美しい蝶になるという、その生命の神秘と生きる力を愛さずにはいられなかったからです。彼女の愛情は、物事をよく観察し、理解が深まった結果生まれた愛、非常にソフィストケイトされた知的な愛だと思います。
価値観を変える上で大切にしたいキーワード、それは「愛づる」。1000年前に日本の豊かな自然が生んだ、この虫愛づる姫君のような態度で臨めば、新しい科学技術を生み出し、環境問題にも立ち向かっていくことができるだろうと、私は信じています。
* 画像(上) 「虫愛づる姫君」 提供:JT生命誌研究館
生命誌から見た都市の姿のあり方 ―生き物に倣う、これからのまちづくり
中村桂子 JT生命誌研究館館長(新しいウィンドウが開きます)




















