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日本が世界に誇れるものを!太田道灌公の18代子孫が目指す江戸城再建のロマン

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丸の内地球環境新聞では、「NPO法人 江戸城再建を目指す会」(以下、「再建を目指す会」)の活動を何度か紹介してきました。

過去の記事では、東京に残る江戸城の遺構の数々や、江戸城天守の城郭建築としての素晴らしさ、その政治的・歴史的意味など、建造物や歴史に焦点をお伝えしてきましたが、今回は、「再建を目指す会」に関わる人に焦点を当ててお届けしたいと思います。

お話を伺ったのは、江戸城の歴史を語る上で欠かすことのできない太田道灌公を先祖に持つ、第18代目の子孫・太田資暁(すけあき)氏です。

――江戸城を築城した太田道灌公を先祖に持つということと、いまご自身が江戸城天守の再建を目指されているということについて、どのように感じていらっしゃいますか?

ota-doukan.jpg太田氏 そのことはよく聞かれますが、太田道灌の子孫だからこの活動に取り組んだ、というわけではありません。
道灌が江戸城を作ったのは、今から550年ほど前の1457(長禄元)年のことです。その当時のこの地は原野で、今の私達がイメージする江戸の街並みや江戸城の姿とはかけ離れていました。当時の江戸城には天守もありませんでした。ですから、道灌の子孫だから江戸城を再建しようと思っているわけではありません。
いま私が「再建を目指す会」の活動に力を注いでいるのは、会の理念や目指すところに共感共鳴した、ということに尽きます。

――太田道灌公は、なぜこの地に城を築いたのでしょうか?

edo-jo-view-from-shiomi-zaka.jpg太田氏 それは、当時の複雑な政治・軍事の状況が背景にあります。
当時は足利氏が政権を担った時代ですが、幕府の力はそれほど強固ではありませんでした。関東においてもその傾向は同様で、時代が進むに連れて、関東の勢力は独立志向を強めるようになります。関東は京都(幕府)とことごとく対立したのです。
次第にその混乱は関東の内部に波及し、関東の勢力が二分する形で対立するようになります。両勢力は、利根川・荒川を挟んで熾烈な戦いを繰り広げていました。南関東側の勢力の有力な武将だった道灌は、戦いの前線基地を作ることを命じられ、そのうちの一つの拠点として江戸城を築きます。江戸を拠点として選んだのは、ここが天然の要害だったからです。
当時は、江戸城大手門の目の前まで海が入り込んでいました。そこに流れこむ平河が東方から来る敵を遮り、北には神田の山が聳え、西には溜池の沼地がありました。敵が軍団を展開しようにもそのための場所がなかったのです。

edo-jo-bairin-zaka.jpg あちこちで水が湧き出ていたことも大きな理由の一つと考えらます。籠城戦では食糧と水の確保が守備側の大きなポイントになりますが、城内で水が湧き出ていれば、水の心配をする必要がないわけです。食糧については、城内に梅や栗の木を植えて、いざというときの備えにしていました。

――なるほど。最近は屋上緑化や壁面緑化の流れの一環で、食べられるものを植えようという「Edible Landscape」という動きがありますが、戦乱の当時、まさにそれを地でいっていたわけですね。
ところで、守るに堅いこの江戸の地が、江戸時代を経て現代の東京に至るまで、発展を続けてこられたのはなぜだとお考えでしょうか?

edo-jo-view-from-tatsumi-yagura.jpg太田氏 それは、この地の平野の広さと海の近さ、そしてそこに目を付けた徳川家康の功績が大きいと思います。
家康は、1590(天正18)年、秀吉の命で関東にやってきたときに、江戸湊の海上の風景と関東平野の広大な土地を見て、これを活用して一大都市を築こうと考えたと言われています。
当時の物流の中心は水運ですが、江戸湊は関東地方の水運の要衝でした。城を築き、まちを作るための大量の物資を、海運を活用して運び込むことができます。また、平野は開墾すれば農地になります。家康は、都市の住人を支えるに十分な農地をそこに見たのでしょう。こうした家康の発想にもとづくまちづくりが、その後の江戸の発展につながっていったと思います。

また、今の東京のまちも、江戸城や江戸の街並みの遺産の上に成り立っている部分が大きいわけです。このまちのポテンシャルと、それを「発見」した家康、そして家康が築いたものを継承してきた人々の営みが、今の東京の発展につながっていると思います。

――その東京に、江戸城を再建する活動の意義についてどのようにお考えでしょうか?

太田氏 世界に誇れるものをつくりたい。江戸城天守にはその価値がある。という思いに尽きます。
日本はいま総じて元気がないように思います。それは、世界に対して堂々と誇れるものがないからではないかと思っています。
最近の話で言えば、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還や、サッカーのワールドカップでの日本代表の活躍など、「誇らしい」ものがあるということは、私たちの心を実に明るくしてくれます。

edo-jo-5.jpg 日本の城郭は、石垣の作りや屋根の形状、漆喰の白亜の壁など、世界にも類を見ない美しい建築です。木造建築の粋とも言えるでしょう。まさに、ここ日本にしかない、世界に誇れるものの一つだと思っています。
日本各地に再建された城郭はありますが、日本の中心であるはずの東京では、その動きがありません。いまの東京のまちが、江戸城の遺構の上に築かれたものであるにもかかわらず、です。
日本の、東京のシンボルとして江戸城を再建し、自信や誇りの拠り所にしていきたいと思っています。

――「会の理念や目指すところに共感共鳴」されたというお話もありましたが、まさに今お話くださったようなことが共感のポイントと理解してよろしいでしょうか?

edo-jo-ota-san-2.jpg太田氏 そうです。
それに加えて、世界の人との関わり方という点でも大きな意味があると思っています。
というのも、外国人をよくこの場所* に招くのですが、彼らがとても喜ぶんですね。「世界で一番きれいな場所だ」と。都心のど真ん中に、広大な土地と緑を残していること、それが壮大な歴史遺産であることに大きな衝撃を受けるようです。

edo-jo-view-from-tenshu-dai.jpg面白いことに、彼らは「皇居は外から見るのは綺麗だけれど、どうにも近寄り難い」とも言うんです。「何で国旗を立てないんだ?」というようなことも聞かれました。西洋の発想からは不思議でしょうがない場所のようです。

ですが、ここが「近寄り難い」から近寄らないというのは実に勿体ない。世界で唯一無二の、ここにしかないものを作りえる可能性を秘めているのに、それを活用しない手はないと思うわけです。
ここに美しい江戸城天守を再建すれば、大勢の人が訪れるでしょう。東京に訪れた外国人を江戸城に案内して、行幸通りと丸の内仲通りを通って銀座に連れて行き、買い物とご飯を楽しんでもらって、汐留のホテルに送り届ける、という素晴らしい観光コースもでき上がります。

大阪を訪れる外国人の6割が大阪城を観に行く、という話を聞いたことがあります。それだけの人が日本的なものを求めているということだと思います。
世界に誇れるものをつくって、観光資源としても大いに活用する、というのが私たちの会で目指しているところです。

――大丸有地区では、「1000年続くまちへ」をスローガンに掲げています。江戸城は550年、太田家はさらにそれより長い歴史を歩んできていると思うのですが、1000年という時間軸で物事を続けていこうと思ったときに、何が必要だと思われますか?

edo-jo-ota-san-3.jpg太田氏 何よりも平和であることが大事だと思います。戦争の混乱は、続いてきたものをいとも簡単に壊してしまいます。
太田家の始祖は、平安時代末の源頼政(1104~1180)に辿ることができます。平家に旗挙げした最初の源氏の武将です。そこから数えると900年の歴史がありますが、戦乱の時代は、誰が正式な家督継承者なのか、はっきりとしたことが分かりません。道灌は、主君に謀殺されてしまい、残された男子のうちの誰が家督を継ぐかが決まっていなかったことが大きな理由です。江戸時代以降ははっきりとした系図が残っているだけに、戦争の混乱が系図からも見て取ることができます。

もちろん、人々の生活という観点でも、日本では戦国時代と太平洋戦争での敗戦時が一番辛い時期たったはずです。平和な社会を築き、その上で歴史や文化を継承していく。それが大切です。
一方で、平和ボケしてしまうのは問題です。江戸時代は、世界史上稀に見る戦争のない平和な時代でしたが、時代が下るにつれて平和ボケして、時代の変化についていけなくなってしまいました。それが、幕末の混乱を招いたと思っています。平和の中でも常に革新を求めていくことが必要です。

今の日本は、平和ボケの状況に陥っていると思います。外へ出て行こうとする若者が減っているという話をよく聞きますが、これは内輪の論理だけでやっていこうとする内向きな意識の表れで、幕末の状況と重なるような気がしてなりません。一方で、高校で世界史が必修科目なのに日本史が必修でないとか、日本のことを説明できる若者が減っている、というのは、極めて倒錯している状況ですが、これらは実は表裏一体の問題で、外を意識しないから自国を意識できないし、自国のことを知らないから外にも目が向かないのだと思っています。

そういう状況を打破する一つのきっかけとしても、日本人の心の拠り所、日本を象徴する建造物として、江戸城天守を再建することはとても意味があることだと思っています。

* 東京海上日動ビル24階にてインタビューを行ないました。東京海上日動火災の関係者が利用可能な施設です。太田氏は、プロフィール記載の通り、東京海上の役員を務められました。 * 写真1枚目・8枚目:太田道灌公の第18代目子孫・太田資暁(すけあき)氏
* 写真2枚目:東京国際フォーラム内にある太田道灌公の銅像。その目は江戸城(現在の皇居)を見据えています。
* 写真3枚目:現在の皇居東御苑内の「汐見坂」から見る丸の内のビル群。「汐見坂」の名は、日比谷が入り江だった頃、ここから海を見ることができたことから付けられたと言われています。
* 写真4枚目:現在の皇居東御苑内にある「梅林坂」。道灌公が植えた梅の木々がその名の由来と言われています。
* 写真5枚目:内堀通りと行幸通りの交差点付近から見る丸の内のビル群。この辺りは広大な大名屋敷が立ち並んでいました。なお、左手に見えるのは現存する数少ない櫓の一つの「巽櫓(たつみやぐら)」です。
* 写真6枚目・7枚目:江戸城天守の復元イメージCG。
* 写真9枚目:天守台から眺める丸の内のビル群。ここに天守が再建されたら、東京の風景はどのように変わっていくでしょうか?
* 写真10枚目:太田資暁氏。窓の外には見えるのは、雄大な森を讃える皇居です。

太田資暁氏プロフィール

太田道灌公18代目子孫。東京海上専務、東京海上あんしん生命社長を経て、現在は出光興産監査役。「NPO法人 江戸城再建を目指す会」、「太田道灌公墓前祭実行委員会」では会長を務め、歴史を継承する活動に取り組んでいる。

江戸城再建を目指す会
太田道灌公墓前祭実行委員会

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