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丸の内朝大学から生まれた「ひまわりプロジェクト」、東大報告会=協力者が被災地の「今」を話し合う=

himawari_1.jpgひまわりプロジェクト、東大報告会の参加者集合写真

丸の内朝大学から生まれた「ひまわりプロジェクト」。被災地以外の人々がひまわりなどの花の苗を育てて東北の被災地に送り、人々のつながりを作り出そうという取り組みだ。その中心の一つとなった「東日本環境支援部−ひまわりプロジェクト東大支部−」が11月27日に東大駒場祭で報告会を行った。被災地の人々、東大の学生、苗を育てた人が集まった。被災地からの感謝が伝えられた。そして復興のための課題を共に考えた。

「被災者の皆さんに何かがしたかった」=苗を送る人は祈りを込めた

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左から避難所の地区区長の桜井さん、ひまわりプロジェクト東大支部の田中教授、留学生の鄭さん

「何かがしたかった」。台湾人留学生で東大の博士課程3年に在籍する鄭方婷(チェン・ファンティン)さんは取り組んだ理由を、東大の報告会で述べた。鄭さんは「東日本環境支援部」と名付けられた、東大のひまわりプロジェクトの代表だ。ちなみに「支援部」とは中国語で「支援のボランティアサークル」という意味を持つ。日本語でも中国語でも意味が通じるように名付けられた。

ひまわりプロジェクトは、エコッツェリア協会(大丸有環境共生型まちづくり推進協会)が開く早朝のセミナー「丸の内朝大学」をきっかけにスタートした。4月初旬に開催された「コミュニティアクション for 東日本大震災」で「被災地のために私たちができること」が、話し合われた。ここで日比谷花壇に務める越智正夫さんからプロジェクトが提案された。

「私たちは花を売る仕事をしています。花は送る人、受け取った人の絆になります。被災地の生活と社会の再建の途中で、協力して花を育てることは、被災者の皆さんをきっと和ませ、つながりを生むと思いました」。報告会で越智さんは提案の意図を話した。その願い通り、多くの人が花を通じてつながった。

「東日本環境支援部」の活動を、各国の留学生が熱心に取り組んだ。同大学東洋文化研究所の職員で、国際政治研究の田中明彦教授の秘書を務める池田恭子さんが留学生にプロジェクトを紹介。そこから支援の和が広がった。鄭さんや池田さんと、20名以上の留学生を中心に約10万粒のひまわりの種を7,000袋に仕分け。5月の東大駒場の学園祭や学内で配り、そのうち600株が東大に戻ってきた。それを宮城県に送った。報告会には、ひまわりを一生懸命に育てた作新学院中等部の生徒も参加。被災者の皆さんに「頑張ってください」と、願いを伝えた。

池田さん、そして鄭さん、顧問の田中教授らは花の送られた場所を訪問して苗の植え替えや種の収穫を手伝った。こうして交流が続く。「学生ができることは限られますが、どの留学生も『日本のために何かできないか』と考えていました。被災地の皆さんを支えたいと、世界の人々が願っています」。テイさんは活動に込められた気持ちを説明した。

つながり、希望、癒しが生まれた=花は受け取る人の心の支えに

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現地での取り組みの説明

「皆さんの取り組みに本当に感謝します」。報告会に出席した名取市の桜井久一郎さんが話した。ひまわりプロジェクトの苗の一部は、宮城県の名取市の「美田園花の広場」に送られ、花を8月に咲かせた。約1,000株のひまわりの咲く写真で紹介された。とても壮観な姿だった。

この広場は名取市の美田園第2仮設住宅に隣接しており、津波の被害を受けた同市沿岸部下増田地区の約120世帯が住む。そこと近隣の人々が、土地を無償提供している西松建設の社員の助けを受けながら、花を育てた。

ひまわりが咲く夏には地区の交流会、枯れた後には収穫祭が行われた。さらに日比谷花壇の提案で、ひまわりの後にはチューリップ、コスモス、ベコニアも植えられた。仮設住宅の自治会長である高橋茂信さんは仮設住宅での暮らしを話した。「私たちは今でも不安の中で暮らしています。ですが花を見るとなごみます」。

桜井さん、高橋さんはかつて農業を営んでいた。大震災では、押し寄せる津波から必死に逃げた。桜井さんは近くの仙台空港に逃げ込み、高橋さんは地区の人々の避難を誘導した後で集会場の屋根に上って津波から逃れた。寒さにふるえ、足下に迫る水の恐怖と戦いながら、一夜を過ごしたという。そして海水に浸ったために、自らの土地で農業はできなくなった。被災地の人々は多くの苦しみを背負った。

ここの仮設住宅に暮らす人の多くは農家で、大きな家、そして自分の土地に隣接した開けた空間に住んでいた。四畳半二間の狭い仮設住宅で過ごすとストレスがたまる。「花を育てて、誰もが気がはれました」(桜井さん)という。震災後に家にこもりがちだった主婦らが、花を楽しそうに植えたそうだ。

山積する復興の課題=つながりが未来の可能性を生む

しかし復興の道のりは長い。仮設住宅に住む人は今、「今後の仕事をどうするか」という切実な問題に向き合っている。地区の有志は「グリーンファーム」をという会社を立ち上げ、宮城県白石市で土地を借りて共同で農業を始めている。しかし仮設住宅から農地まで行くには片道一時間はかかり、疲労は大変だそうだ。

震災によって現地企業の多くは倒産か休業に追い込まれてしまった。地区の兼業農家は、会社勤めからの収入が断たれた例が多いという。国によるがれきの片付けの仕事などはあるが、これは長く続くものではない。「将来の仕事があるのか、多くの人が不安を抱えています」(高橋さん)。

また住む場所の問題もある。震災による被害の状況はさまざまで、ここの仮設住宅に住む人にも、全財産が津波に流された人もいれば、家に戻って農業を再開しようとする人もいる。ただし津波再来の恐怖から、大半は移住を希望している。国の支援で移住には補助金が出るものの、「どこまで負担をするのか」「新しい土地での仕事はどうするか」など、細かいことはまだ決まっていない。

報告会では、「継続して支える方法はないか」「さらに何をするべきか」という質問がされた。ただし話し合っても、解決策は出なかった。「問題を一つひとつ、解決していかなければなりません。それには、長い年月がかかるし、もはや生活は元に戻らないでしょう」(桜井さん)。現実は厳しい。

できることを探るのは、これからだ。「大丸有(東京の大手町、丸の内、有楽町地区)は、人と企業の集まり、力と可能性に満ちたまち。それを活用しながら、被災者の皆さんとの間で生まれた新しいつながりを大切にして、農業を継続して助け、みんなが『ウィン−ウィン』になる形を考えていきたいです」。プロジェクトを支えた一人である、エコッツェリア協会の村上孝憲さんは希望を話した。

復興、そして東北の再建は長い時間がかかる。つながり、支えることを「ひまわりプロジェクト」は新たに生んだ。そしてこのプロジェクトは来年も続く。そのつながりを大切に育てながら、東京と大丸有の知恵、そして消費力で、被災地とひまわりプロジェクトはさらに深くつながろうとしている。

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