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「丸の内朝大学」×「地球大学」=丸の内で考える賢いからだ! 為末大さん、細川モモさんを迎えてスタート!

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今年度の「グッドデザイン・ベスト100」にも選ばれ、ますます丸の内の朝の時間の提案として定着してきた丸の内朝大学ですが、今年は、丸の内の環境セミナー「地球大学アドバンス」とのコラボレーションを始めました。9月24日・25日に、そのキックオフ講義となる「丸の内で考える賢いからだ」が元プロ陸上選手の為末大さん、渋谷区議会議員の長谷部健さん、スポーツドクターの福島一雅さんをゲストに迎えて開催されました。その24日の様子をレポートでお届けします。ナビゲーターは地球大学アドバンスでお馴染み竹村真一先生と、朝大学では「タニタとつくる健康の習慣クラス」、「美活・妊活クラス」の講師でもある、予防医療コンサルタントの細川モモ氏です。
グッドデザイン・ベスト100 ― 丸の内朝大学
地球大学アドバンス

長寿社会で必要とされる体育て

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竹村: 今回は、これから朝大学と連携して展開を考えている「賢いからだ」シリーズの第0回講義という形で開催します。このような企画を考えた理由は3つあります。
1つは、マラソンやスポーツがブームになる中、正しい知識を欠いているが故に体を壊してしまう人も増えている。もっとアスリートの知識や経験を広める回路を作っていく必要があるということ。2つ目に、トップアスリートにはセルフコントロールや組織のモチベーション・デザインなど、狭義のスポーツに限定されない知恵や経験資源があり、それはビジネスやコミュニティづくりのヒントとなるはず。アスリートやその経験を、そうした社会資源として捉え直し、ブロードバンドに活用していく回路を、丸の内が率先してデザイン出来るのではないかということ。
3つ目は超高齢社会を迎える中で、これまでの若者中心の「体育」や競技スポーツとは違う価値観での、それぞれの年齢や体力に応じた「からだそだて」の知恵、年齢とともに増えていく障害や弱さと折り合っていく知恵が求められる。食生活も含めた総合的な健康文化のあり方を、トップアスリートと共に考えていきたい。それは長寿社会のスポーツ文化をデザインしていくことにつながるとともに、近代オリンピックとは異なるコンセプトでの東京五輪2020の構想にもつながるのではないか?また、そうしたスポーツ文化がまちの風景として日常に根づいた街づくりのあり方を、丸の内が牽引していけないか?こういう思いで、本日は為末さんをお迎えしました。

アスリートが経験を社会に還元することの意味

為末: おはようございます。自分で何ができるかを引退してからずっと考えています。今までのスポーツ選手というのは社会に感動や活力を与えるという役割でした。でもそれだけではもったいないので、他にできることはないだろうかとずっと考えていました。外国では、アスリートに対する国のサポートのリターンとして、引退したあとその知見を還元してもらうという考え方があります。アスリートの人生をトータルにとらえる考え方です。これは昔まちやむらを代表して誰かが「伊勢参り」に行ってその経験を話すというのに似ているのかなとおもって、それがこれからのアスリート像なんじゃないかと思っています。

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例えば、アスリートしかできない経験にいわゆる「ゾーン」というものがあります。ここに入った時、僕の場合は自分の足音がずっと頭に響いて、観客の声が小さく聞こえたという経験がありますが、色々なアスリートに話を聞くと共通するのは「頭より先に体が動いている経験」だということです。これは普段とは逆に体が頭に影響を与えるという現象なのではないでしょうか。これを使って体感的に学ぶこと、例えば歩きながら本を読んだりすることで効率的に学習ができたりそういうことがあるのかもしれないと思うのです。

もう一つ、僕は34まで現役をやったわけですが、28歳のある朝「おかしいな、疲れが取れないな」と思うことがありました。それまではこんな練習をしてこんなものを食べてこれだけ寝ればこういうコンディションになるっていうのがわかっていたのに、28の時にそれがズレはじめたんです。この下り坂の競技人生というのは、すごく貴重な体験で、体が衰えて、どんどんトレーニングができなくなっていく中で自分の体と向き合って「何が無駄なのか」を追求することが出来た。それまでやっていたトレーニングには実は必要のないものが混じっていたということを問いなおすことが出来たわけです。これは一般の人が体と向き合っていく事にもつながるのではないかと思います。

それから、アスリートが持つ一番高い能力は、さっきと今と何がどう違うのかを判別するセンサーの能力だと思うのです。結果をロジックで判断するのではなく、なんとなくこっちのほうが心地よいというような「感じ」で判断する、そんなセンサー、そのセンサーをうまく使えば社会のセンサーというところまで持っていけるんじゃないかと思うのです。あとはイメージする能力、結果をイメージしてそこに現実の体の動きを引っ張っていくということをアスリートはやっていて、これは学習プロセスとして社会に還元できるのではないかと思います。

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今年の夏はじめて「見る」側でオリンピックとパラリンピックを見たわけですが、パラリンピックを見て、パラリンピアンというのが新しい可能性を見せてくれているような気がしました。彼らはアンバランスなところからバランスを求めるという作業をしていてそれがこれからの科学の糧になっていくんじゃないか。面白かったのは走り高跳びで義足と義手の人が同じカテゴリーに入っていて、普通は義足のほうが不利だろうと思うけれど、実は飛ぶときに舵の役割をはたす手に障害がある方が実はハンデが大きい。それをみて自分で走るときももっと手のことを考えたほうがバランスがとれたんじゃないかと思ったりしたんです。

こんなことを言うのは、スポーツ選手のセカンドキャリアという問題があるからです。これはスポーツ界にも問題があって、現役が終わったら何かしらの人生を生きなければいけないという発想を持ちにくい。指導者もそういうことを考えずに集中するんだという。でも、現役の頃から前半は自分の体で実験し、後半でその経験や知識を社会に還元するんだという意識を持っていたほうが、実は自分の感性とか感覚を観察する癖がついて、競技生活にも役に立つかもしれない。そのようにして現役時代に磨いた感覚や感性を活かして新しい社会のあり方を作っていくのが次世代のアスリートの役割なんじゃないかと思うんです。

そのために最近始めたのが、行政や企業が持っている活用されていない保養所をスポーツを出来る場所として活用するという活動と、為末大学というのを作って、口下手なスポーツ選手の言葉を伝えることでもっと体と合わさった形の知を練る場所を作ろうという活動です。

スポーツがこれから果たせる領域は、予防医療とか病とどう付き合うかという医療の領域、教育、身体をはぐくんでいくような領域、街づくりなどがあると思います。ヨーロッパのデンハーグに行った時、小さな競技場があって、そこではお父さんが出勤前にジョギングをして、昼間はお年寄りがペタンクをして、夕方は子どもたちがスポーツをして、夜は大人がサッカーをしてパブで飲んで家に帰っていくという場所だった。これが原体験みたいに自分の中にあるので、日本でもそんな家族的なコミュニティが作れないかと考えています。

行政がスポーツで社会にできること

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長谷部: 今日は選挙のときのマニフェストを配らせていただきましたが、スポーツの語源はラテン語の「デポルターレ」で、「発散する」などの意味があります。「デポルターレ」ということを考えると、やるばかりでなく見ることでも当てはまるので、じつは渋谷区には観る施設がたくさんあるということでそれを利用しようと考えました。

そこで、プロスポーツチームにアプローチして、学校に来てもらって話をしてもらったり、プロの技というものを見せてもらいました。プロスポーツチームにとっては子どものファン獲得は重要なことなわけですが、子どもたちは間近でアスリートの肉体を見て圧倒されて、今度は試合に招待してもらう。そうすれば子どもたちはチームのファンになって、渋谷区は税金を一円も使わずにスポーツ振興ができるわけです。

もう一つは企業を巻き込むというやり方で、ホームレスが寝泊まりして児童公園として活用できなかった場所を、ナイキに働きかけてバスケットコートなどを整備してもらった。ちょうどマイケル・ジョーダンが来日するというので「マイケル・ジョーダン・メモリアルコート」という名前にして、企業は宣伝になるし、渋谷区はやっぱり税金を使わないで今度は公園が整備できたのです。

今後も色々考えていて、まずは園庭や校庭の芝生化で、渋谷保育園で実現しました。あとは渋谷の部活が弱いということでアスリートを部活のコーチとして臨時に雇用する「スーパー先生プロジェクト」というのも考えています。あとは、シブヤ大学のスポーツ版として、シブヤ体育大学みたいのができないかと考えています。アスリートのセカンドキャリアとしても有効ではないかと。

イメージ、スーパーヒューマン、ダイバーシティ

竹村: 今回の「賢いからだ」というコンセプトは、五味太郎さんの「じょうぶな頭とかしこい体」から頂いたのですが、ここに重要なメッセージがあるように思います。

為末: スポーツ選手には足していくことで理想に近づくのか、引いていくことで近づくのかという矛盾を抱えている。どちらが正解ということではなくて、スポーツの動きというのは不自然なものが多いので、それをどう自然にやるかを考えると、色々な知識を得るという足していくことと、最後に重要になる何を感じるかというセンサーを磨くという引いていくこと、そのバランスを取ることが必要になってくるんです。

竹村: 下り坂の自分のからだの変化と折り合うというのは、長寿社会のスポーツを考える上で示唆に富んでました。今の自分とは違う状態をイメージする事も、環境の変化に適応できない日本の企業の現状を考えると、ビジネスやライフデザインに広く求められる能力でしょう。

為末: イメージできる限界が実は競技力の限界みたいなところがあって、僕にとって金メダルのイメージは白黒で音がなかったけれど、銅メダルは色があって音も聞こえた。イメージが遠すぎても駄目だし近すぎてもだめで、その間にあるイメージを抱くことがたいせつなんじゃないかと。そのためには、無意識の中にある思い込みを取り除いて、そもそものところに一回戻ってイメージしなおすということを大事にしていました。

竹村: 「パラリンピアンから新しいスポーツの可能性が見えてくる」というのも重要ですね。超高齢社会では、障害がマイノリティではなくなり、誰もが何らかの障害を持ちつつQOLを維持していくクリエイティビティが求められる。障害と健康という二元論を超えた価値観がこれから必要になる。
もしかしたら障害を何らかの器具や技術で補完したサイボーグが、人類のデフォルトになってくるかもしれない、それをパラリンピアンが予示しているのかもしれない。実際、ロンドンでは「スーパーヒューマン」という形で、新しい人間のあり方というポジティブな捉え方で、パラリンピアンに市民が触れあう機会が作られていた。
そもそも義手や義足を使いこなせてしまう人間の可塑性というのは、技術の凄さ以上に、人間のからだと脳の潜在能力の高さを表現している。その辺りのボーダーラインが消えて行くということについては?

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為末: 例えば寿命が150歳になって、まちの半分の人が障害を持つようになったらまちのコンセプトというのはまったく異なるものになってきて、そもそもまちが何のためにあるのかが問い直される可能性もあると思います。だから、パラリンピックを中心にまちづくりをしようとするとまちづくりの前提が覆されるので、それなら東京にパラリンピックを持ってくる意味があるんじゃないかと思っています。

竹村: 「弱さ」は大きなデザイン資源で、まちを作り替えていく大きな要素になっていくと思いますが。

長谷部: 次の街づくりのキーワードはダイバーシティで、パラリンピックが日本に来たら、それが普通になるかもしれないですね。LGBTの人なども、うまく活用できないかということも考えています。

竹村: 古代オリンピックでは、アスリートは詩も読んだり楽器も奏でるトータルなアーティストだった。芸術と武術、医術まで統合した総合芸術としてのスポーツを再現していくのが21世紀のオリンピックの課題ではないでしょうか。

為末: スポーツだけを切り離すのではなく、文化的なものを全部含めて一部としてスポーツがありながら、人類が向かう方向性を確認しあう場所としてのオリンピックというものが実現していって、そこにさらにまちづくりが入ってくるといいのかなと思っています。

長谷部: ダイバーシティ的なまちづくりに文化やスポーツは欠かせないものですよね。

竹村: 今日は、スポーツやアスリートという概念をブロードバンド化してみようという意図で討議してみました。どんなものも時代の環境やニーズに応じて作りかえていかねばならない。そうした想像力と創造性が、スポーツにも街づくりにも求められる時代だと感じました。