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生命誌から地球環境問題を問い直す ―生命を基盤にしたまちと時代を築く(中村桂子氏)

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1.炭素はけっして悪者ではない ――環境活動への問題提起

生命科学に時間と関係という概念を取り込むことで、生命の本質に迫り、人間とは何か、生命にとって環境とは何かを解き明かそうとする「生命誌」。その提唱者としてJT生命誌研究館の創設に携わり、現在、館長を務める中村桂子氏は、生命誌研究館での活動を通して、地球環境の大切さを訴え続けてきた。喫緊の課題である地球環境問題に対して、また、都市における[[生物多様性]]について、私たちはどのような視点をもつべきか、そしてどうふるまうべきか。半世紀にわたり生物の研究に携わってきた中村氏の答えとは――。

1.炭素はけっして悪者ではない
――環境活動への問題提起

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生物研究をはじめて、今年でちょうど50年を迎えました。その間、生き物の進化の営みを「時間が紡ぐ物語」として包括的に捉える「生命誌」という概念を提唱し、38億年にわたって生命を育んできた地球について考えると同時に、地球環境問題の解決に道を拓きたいとも思ってきました。現在でこそ、地球や生物に多くの方が関心をもつようになりましたが、研究を始めた当初は、私のような考えはまったくのマイノリティだったのです。

歳をとって、3歳児の反抗期に戻ってきているので、長い間生物研究をしてきた立場から、今日は、少し過激なことを言わせてください。現在、多くの人が地球環境問題に関心をもつようになったのはよいことと感じていますが、一方で、CO2の排出量を25%削減するとか、生物多様性に取り組むと言っても、今のままで科学技術を進めるだけではダメだと思うのです。それは、多くの人の目が、地球環境問題の本質を見ていないと感じるからです。

言葉一つをとっても、それがわかります。最近よく使われる言葉に「低炭素社会」がありますが、この言葉を聞くと、私は不思議な気持ちになります。なぜなら、私たちは炭素の塊なのですから。

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すべての生き物は炭素の塊であり、炭素を否定することは生物を否定することにほかなりません。実は、炭素化合物の中で、どうにも扱いようがない、はぐれ者がいる、それがCO2です。CO2を利用できるのは植物だけであり、私たちはその活用を植物にお願いするしかありません。光合成のメカニズムが解明されつつある現在でも、人工的に光合成作用を起こすことはできず、だからこそ植物を大切にし、木を植える必要があるのです。

ところが皆さん、安易に「低炭素社会」とおっしゃる。人工物に囲まれたエネルギー多消費社会の中では、CO2にしか目が向いていない、重要な炭素化合物、つまり生き物は見えていないことがわかります。ちょっとした言葉の問題のようですが、そうした根本から考え直していかないと、環境問題を解決するのは難しいと考えています。

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2.想像力と内発的な行動が創造性を生む ――自然の中に生きる人間として

2. 想像力と内発的な行動が創造性を生む
――自然の中に生きる人間として

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今、私たちに求められているのは、「構想力」だと思います。CO2だけを見てどうこうしようと考えるのではなく、全体を見渡し、構想力をもって臨まなければ環境問題は解決できません。では、構想力とは何か――辞書を引くと、物事を体系的に考え、まとめあげる能力と書かれていますが、哲学の世界では、構想力は想像力とも訳され、同じ意味をもちます。構想力というと難しいことのように感じますが、想像力をもってイメージすることなら誰にでもできますし、想像力は科学の世界でも不可欠な要素の一つです。ノーベル化学賞を受賞された野依良治先生も、「科学は、想像力がなければできない」とおっしゃっているように、想像力は、人間の知をつくり上げ、文化を創出する源泉といえます。そのことは、子どもたちが想像力豊かであることからもおわかりになるでしょう。残念ながら大人はその能力を徐々になくしてしまうわけですが......。

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想像力に必要なのが「内発」です。私たち生き物にとって、環境は生きていくことそのものとつながっているものです。ここで息を吸えば、空気中の成分が体内に入り、自分の一部になる。そのことにより生き続けることができる。つまり、環境問題は私たち生き物の問題そのものなのであって、環境を大事にするというのは内部から自然に生じる気持ち、内発性に支えられて当然なのです。逆に言えば、想像力をもって内発的に考えない限り、環境問題の解決などあり得ない。イマジネーションを豊かにし、内発的に物事を成すことによって、初めてクリエイティビティ=創造性が生まれるのだと思います。

そして、私たちが内発的に考えるための拠り所となるのは、「自然」にほかなりません。なぜなら、人間が誕生したとき、地球上には自然しかなかったのですから。ではここで、その自然との関係、つまり私たちの自然観が、どのように変容してきたのか、科学技術の系譜を辿るために、西洋の歴史をざっと振り返ってみます。

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3. 自然は区別できない一つのものである ――生命を基盤にした時代をふたたび

3. 自然は区別できない一つのものである
――生命を基盤にした時代をふたたび

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人間は自然の中で生き物として誕生し、自然から食べ物などの恵みを受けて生きてきました。その結果、あらゆる物に霊の存在を感じる「アニミズム」が生まれます。いわゆる自然信仰です。

ギリシャ時代になり、プラトンがイデア論を説き理性が生まれ、ギリシャ神話の中で世界の始まりや神々の誕生、人間の誕生が語られ、新たなに「神」が生まれました。さらに中世ヨーロッパではキリスト教の浸透により、神は絶対的な存在となり、人間は神によって特別な存在として認められ、自然の支配者としての地位を与えられるのです。そして近代を経て現代に至ると、科学は神を殺してしまう。人間がすべてを司り、自然を支配して、人工物をつくり出すようになってきたというわけです。科学技術文明の時代であり、私たちはここにいます。

科学技術文明の中での自然は、3種類あります。(1)は暑さや寒さなど、私たちが暮らすうえで面倒くさいと思う自然。この自然を技術で制御して、快適さを手に入れてきました。(2)地震や津波や台風など、現代の私たちの技術をもってしてもどうにもコントロールできない恐ろしい自然です。そして(3)は、私たちの目を楽しませる美しい自然。

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このなかで、科学・技術の発展の大きな原動力となったのが、(1)の面倒な自然の制御といえます。確かに、快適に暮らせるようになったことは素晴らしいことです。ところが、この面倒な自然をコントロールしてきたことが、恐ろしい自然をより恐ろしくしているのではないか、という危惧が生まれてきました。恐ろしい自然がより恐ろしくなっているのかどうか、もしなっているとしたらその原因は何か、についてははっきり解明されていませんが、最近は実際に、気象の荒れ方が激しい気がします。もしかすると、それは私たちが山ほどCO2を排出した結果かもしれません。さらに、愛すべき美しい自然が壊れ始めていることは、ご存知の通りです。

ここで生物学者として声を大にして言いたいのは、自然は一つだということです。現代文明は、自然を三つに区別できるかのようにして見てきたけれど、地球環境問題を解決するためには、自然は一つであると認識し直すことが不可欠です。そして、今一度、生命を基盤にする時代をつくるしかないと考えるのです。自然は一つであり、人間は自然の中に含まれていることを認識した上で暮らしやすさを求め、そのための新しい技術を生み出して生きていくということを意味しています。このように価値観を変えない限りは、CO2 削減や[[生物多様性]]を口にしても、本質的な解決策にはならないというのが私の考えです。

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4.価値観を変えるにはどうしたらいいか? ――ルネッサンスの人間復興に学ぶ

4. 価値観を変えるにはどうしたらいいか?
――ルネッサンスの人間復興に学ぶ

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「価値観を変えるほど難しいことはない」――と多くの方はおっしゃいます。確かにそうです。でも歴史の中では、価値観は変わっていきます。その中で人間に注目して価値観を変えた前例に注目します。ルネッサンス・人間復興です。

人間復興で何が成されたかについてはさまざまな説がありますが、私が共感しているのは塩野七生さんの説です。塩野さんは、ルネッサンスを語る上で重要な人物としてアッシジの聖フランチェスコとフリードリヒ2世(神聖ローマ帝国皇帝)を挙げています。前者は鳥や草木など自然界のあらゆる生き物と心を通わすことができ、小鳥に向かって説教をしたという有名な逸話が残る人で、自然回帰、人間愛へとキリスト教を導いた方ですが、これまでラテン語で語られていた難しい説法を、すべて日常的に使うイタリア語に置き換えた人物でもあります。つまり、情報の共有を促した人物です。フリードリッヒ2世は、当時のキリスト教世界の概念に囚われることなく、権威であるローマ教会の命令に背き、イスラム圏と協調政策をとるなど、宗教を絶対視しない、すべてを宗教に任せないということを体現した人物でした。そして塩野さんは、このルネッサンスの人間復興により、以下の二つのことが大きく変ったと述べています。一つは、「なぜと問い、自分で考えるようになった」こと。もう一つは、「善・悪を自らの中に引き受ける」ようになったことです。

当時のヨーロッパ世界において神が悪いのではなく、教会の権威こそが問題であったように、現代も、科学・技術が悪いのではなく、それを権威づけて万能視してしまっていることが問題なのです。ルネッサンスは神との関係での人間復興でしたが、現代は生き物としての人間の回復です。そのためには、科学・技術万能の世界観から脱却して、科学・技術を相対化し、情報を共有する必要がある。そのようにして、自ら考え、善・悪を何かのせいにするのではなく自分で引き受けることができれば、価値観を変え、世界を変えることができるのではないでしょうか――。

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5.機械論的自然観から生命論的自然観へ ――「自然は生まれるもの」である

5.機械論的自然観から生命論的自然観へ
――「自然は生まれるもの」である

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では実際に、自然と人間と人工物による新しい世界を築くには、どうしたらよいか。これが、いま考えるべきことです。

17世紀以降、科学は機械論的世界観により成り立ってきました。その世界観を築いた代表的な人物といえば、ガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンの4人です(伊東俊太郎著『近代科学の源流』)。現代科学の祖であるガリレオは、「自然は数学の言葉で書かれた書物である」と言っていますし、ベーコンは、「自然は操作可能であり、支配すべきものだ」と説きました。さらにデカルトは、「人間を含めて自然界のものは機械である」という機械論的自然観を提唱。ニュートンは、「自然界のすべてのものは粒子に還元できる」という粒子論的機械論を唱えたのです。そして現代の科学は、この機械論的世界観に立脚して、要素を還元していけば、すべてのしくみや謎を解明できるし、そのことから自然も支配できると考えて進んできました。

ところが、ニュートリノまで観測できるような時代になってみると、いくら要素を還元していっても人間や自然の本質はわからない、ということがわかってきました。もはや機械論的世界観では立ちゆかなくなってきたことは、誰もが認めるところです。

では次にくる世界観は何か。私はここで、「生命論的世界観」を唱えたいと思います。

生命論的世界観では、「自然は、生まれるものである」と捉えます。つまり、要素還元によって本質を見ること、数式で厳密に分析することだけでは捉えきれず、語り、描くことでしか説明できないような、複雑で曖昧な世界の理解の仕方を考え出し、その中での生き方を探っていくということです。

たとえば、宇宙は誕生したものです。アインシュタインは宇宙を不変と捉えていましたが、実際にはそうでないことがここ最近の研究で解明されつつあります。宇宙は137億年前に「無」から生まれ、インフレーション、ビックバンを経て、膨張を続けているわけで、まさに未知の状態から生まれてきたものです。しかも、宇宙の中で私たちが知っている物質はわずか4%ほどしかなく、暗黒物質と呼ばれる未知の物質が20%、残りの76%は暗黒エネルギーといわれています。この現象は、機械論的自然観では説明できません。

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生物もそうです。地球上には数千万種類ともいわれる多種多様な生物が存在していますが、その祖先は38億年前に海で生まれ、進化してきたものです。その営みの中に人間も含まれている。まさに「含まれている」ということころがポイントなのです。機械論的自然観では、人間はその進化の営みの外から世界を眺め、自然をモデル化して見ていたわけですが、その世界に自らが含まれ、内から地球環境を見れば、どうすればいいか自ずと答えは出てくるはずです。

「現象学」を提唱した哲学者・フッサールは、「学問の危機は、学問が生に対する意義を喪失したところにある」と言っています。そして科学が扱う対象の世界を、「生活世界」(近代科学以降の科学的な世界観より以前からある、所与の客観的世界観)に求めた。哲学者の今道友信先生も、「人間的意識は時間的存在であるから、時間捨象の世界は人間機械化に至る」として、自然は材料になり、生命は機能になり、意識は反応になり、言語は記号になり、思考は工夫になるといった近代科学以降の世界観は、物事を矮小化するとして批判されています。こうした考えに、私は大いに共感いたします。

* 画像(下) 「生命誌絵巻」 協力:団まりな、画:橋本律子、提供:JT生命誌研究館

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6.循環性と組み合わせ、そして可塑性 ――「愛づる」という知的な愛を育むこと

6.循環性と組み合わせ、そして可塑性
――「愛づる」という知的な愛を育むこと

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科学技術の発展や近代科学を否定するつもりはありません。全人口が69億にもなる人類が、人工物をつくらずに暮らすことはもはや不可能ですし、人工物をつくるうえで近代科学は不可欠です。ただ、機械であれば、構造と機能さえ見ればいいわけですが、生き物を基本にした世界では、構造と機能に加えて、起源、歴史、時間、かかわりといったことまで包括的に見ていくことが必要になる。なぜなら生き物は、外部の環境と、過去や未来と、自分自身と「変わりながら繋がっている」からです。時間と関係性を見ていかなければ、生命のことは決してわかりません。

機械に必要なのは利便性と均一性であり、速く、手がかからず、すべてが思い通りにいくことが求められます。一方で、生きることに必要なのは継続性と多様性であり、生き物にとってはプロセスに意味があり、古いものとつながっていて、すべてはわからないし、思いがけないことが起こるけれど、そこに面白味がある。その違いを認識したうえで、私たちが生き物を基盤にした世界で人工物を築いて暮らしていくためには、「循環性」と「組み合わせ」と「可塑性」が、鍵を握っていると思うのです。

実例を見ましょう。アゲハ蝶は蜜柑の葉に卵を産みますが、他の葉と見分けるために前脚に化学感覚毛と呼ばれるセンサーをもっています。実はこれは、人間の舌の味覚細胞の構造とまったく同じ仕組みをもっているのです。生物は進化の過程で機能の「使い回し」をしてきた。一から新しいものをつくるのではなくて、古いもの、使えるものを捨てずに使っていきます。使い回しの中で物質はすべて循環しています。

生態系の多様性に目を向けます。イチジクの実に寄生するイチジクコバチは、実に穴をあけて交尾をし、卵を産んで、メスは花粉をつけて、また次の実へと移動します。そのことにより、イチジクの繁殖が可能になり、それが森の虫、鳥、動物を支えています。イチジクとハチの共進化が森をつくってきたわけです。ちなみに全生物のうちの大多数が昆虫と植物であり、昆虫や植物の生存のプロセスの中から、さまざまな組み合わせが生まれ、多様性を生み出してきた、これが生態系の基本になっていることを忘れてはなりません。

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さらに可塑性ですが、その最たるものが人間の脳です。脳の可塑性の事例として興味深いのが、脳科学者のジル・テイラー博士の体験です。この方は37歳のときに大量の脳出血を起こし、左脳の大部分が破壊され、言語を失ってしまいました。後の彼女の言葉によれば、「皮膚感覚を失い、体が溶けたように外界との境界がなくなり、ものすごい幸福感に満たされた」のだそうです。とはいえ、言葉をしゃべることもできず、常識的に考えれば再起は不可能と思われていました。ところが、その状況をみたお母様は、これは赤ん坊と同じだと直感的に感じ、赤ちゃんを育てるようにリハビリを行ったところ、8年間で言語を取り戻し、普通の生活に戻ることができたのです。私はジル・テイラー博士にお話を伺ったのですが、このような体験があったとは思えないみごとな話しぶりでした。それくらい脳には可塑性があるということなんですね。

このように、生命を基本に考えるときに私が常に立ち戻っているのが、『堤中納言物語』に登場する、「虫愛づる姫君」の物語です。平安時代に生きた姫でありながら、お歯黒もせず、眉も引かず、毛虫を愛する風変わりな姫として登場します。宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカのモチーフとも言われています。この彼女こそ本当のナチュラリストだと思うのです。毛虫を愛するのは、これがやがて時間を経て、美しい蝶になるという、その生命の神秘と生きる力を愛さずにはいられなかったからです。彼女の愛情は、物事をよく観察し、理解が深まった結果生まれた愛、非常にソフィストケイトされた知的な愛だと思います。

価値観を変える上で大切にしたいキーワード、それは「愛づる」。1000年前に日本の豊かな自然が生んだ、この虫愛づる姫君のような態度で臨めば、新しい科学技術を生み出し、環境問題にも立ち向かっていくことができるだろうと、私は信じています。

* 画像(上) 「虫愛づる姫君」 提供:JT生命誌研究館

生命誌から見た都市の姿のあり方 ―生き物に倣う、これからのまちづくり
中村桂子 JT生命誌研究館館長

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