シリーズ知恵ブクロウ&生きものハンドブック

霞立つ 春の夜空は

抜けるような冬空が去って、煙るような空。季節の訪れを見る風物、"霞"立つ春空の話。

弥生の空は

さくら さくら
やよいの空は 見わたすかぎり
かすみか雲か

吹きつける寒風に襟巻を引き上げるような日もまだ訪れるものの、暖かさに外套を軽くしたくなる日も増えた。空を見上げても、黒々と引き締まって冬らしい澄んだ夜から、薄らと白みを帯びた眠たげな空へと移り変わってきた。移動性高気圧と低気圧が交互に通り過ぎる日本の春の空には、巻層雲が現れる。高空に漂う小さな氷の結晶のため、空全体がヴェールを掛けたような様相になる。月の輪郭も茫々として、月暈が掛かる日もあるだろう。"朧月夜"は如何にも春らしい。そして、春の日は地上までもどこかぼんやりとしている。

霞とは、空気中に浮遊する小さな粒子―水滴や砂塵―による光線の散乱のために、遠くの景色がぼやけてはっきり見えなくなる現象である。大気の状況という点においては現代的な意味で天文現象ではなく気象の範疇と言えようが、《霞》という言葉そのものには気象学的な定義が無く、多分に文学的な表現であるらしい。季節の象徴となる事物は季語として詠われてきた。その中で、"霞"は古来日本の春を表象する現象だった。先月、年始の歌を紹介した在原元方は、霞を詠った春歌でも古今和歌集に撰られている。

霞立つ 春の山辺は 遠けれど 吹きくる風は 花の香ぞする

遠景を淡く烟らせる霞の正体は様々ある。第一には水蒸気だ。草木から若葉が芽吹く季節、植物からの蒸散によって大気中の水分が増え、凝結することによって水滴が発生しやすくなる。山肌から立ち上る霧や靄などに隠される花の風情を惜しむ和歌の雅は多く見つけることが出来る。

一方で、大気に塵などの微粒子が増えることも霞を引き起こす。前線の通過が多い春は、強い風が吹き込みやすい。そのため、乾いた砂塵が巻き上げられることがある。例えば昨年の今頃、関東地方を襲った猛烈な煙霧はまだ記憶にあるだろうか。それ以外にも、この季節には黄砂の飛来が観察されるようになる。遥々中国大陸内陸部の黄河高原や砂漠地帯から、微粒子が偏西風に乗って運ばれてくる。これらの砂塵の濃度が高い時には、視程が悪化したり日中でも太陽が変色したりすることもある。更には、この時期に増加する大気中の粉塵成分として、山林の樹木から飛散する花粉も数えられるだろう。これらの度が過ぎれば、風物詩と楽しむには聊か歓迎し難いものかも知れない。

太陽系の霞

春霞も無くよく晴れた日、日没後に暗くなった西の空に錘状に立ち上る淡い光が存在する。天の川の輝度に比べても淡いこの光に気付くには、月明かりにも邪魔されず、勿論夜空を侵す都市の照明からも逃れた暗夜で、ということが条件になる。天球上の太陽の通り道・黄道に沿って広がるこの光は《黄道光(zodiacal light)》と呼ばれる。黄道光を観察し易いのは、地平線から黄道が大きな角度で立ち上がる時期、北半球では春の日没後の西の空、あるいは秋の早朝の東の空となる。

黄道光の存在を最初に科学的に報告したのは、17世紀に土星の環や衛星の観測で業績を残したカッシーニだと言う。カッシーニは、黄道光の正体を「太陽を中心とした環のようなもの」だと鋭く洞察したらしい。実際、黄道光とは黄道面、即ち地球の公転面に広がる微粒子が太陽光を散乱するものだ。太陽系には、マイクロメートルサイズの非常に小さなダスト粒子、惑星間塵が漂っている

今から50億年ほど前、誕生したばかりの太陽をガスとダストの円盤が取り巻いていた。この原始太陽系円盤の黄道面に沈降したダストの中から地球をはじめとする惑星が成長したと太陽系形成論では考える。しかし、地球の素材がそのまま周囲に残っている訳ではない。太陽からの光の圧力を受ける粒子は、数千年から数百万年かけて太陽に落下してしまう。そのため、現在黄道光として見られる惑星間塵は、比較的最近供給されたものであるはずだ。

ダスト自体が発する熱放射を赤外線で観測すると、短周期彗星や小惑星の軌道に沿った空間構造があることが分かった。ダストは、彗星から放出されたり、小惑星同士の衝突で生成されたりしていると考えられる訳だ。つい先日も、一つの小惑星がダストをまき散らして分裂・崩壊する様子がハッブル宇宙望遠鏡によって観測されている。こうして供給される惑星間塵が、小天体の公転軌道が集中する黄道面に漂っているのだ。

ぼんやりと霞む春の夜空は、星の光を堪能するにはあまり向かないかも知れないけれども、もし澄み切って暗い夕暮れを迎えることがあったならば、そこにはほのかに立ち上る "太陽系の霞"が春を物語っているかも知れない。

内藤 誠一郎
内藤 誠一郎(ないとう せいいちろう)

東京大学大学院にて電波天文学を学び、野辺山やチリの望遠鏡を用いて分子雲進化と星形成過程の研究を行う。
国立天文台では研究成果を利用する人材養成や地域科学コミュニケーションに携わり、2012年からは現職で広く学術領域と社会とのコミュニケーション促進に取り組む。修士(理学)。日本天文学会、天文教育普及研究会会員。東京都出身。
自然科学研究機構 国立天文台 広報普及員
(社)学術コミュニケーション支援機構 事務局長
天文学普及プロジェクト「天プラ」 プロジェクト・コーディネータ

おすすめ情報